WORK 01 / 2026




TADATSUGU KUROSAWA / PORTFOLIO / 2026
2020—2026 / SELECTED WORKS
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TEXT 01 / 2026
――《Ghost Capture System》と《Ghost in the house technology》における像・物質・電気
ゴーストを捕まえてみたい。幽霊になったら、ポルターガイストを起こせるだろうか。
こうした問いを思いつくと、私は、実際にできることを探し始める。使えそうな技術を調べ、回路を組み、形を作る。想像の中では自由だったものが、材料の性質や装置の仕様、空間の条件に触れると、思いがけない制約を受け、具体的な姿を取り始める。その過程で、最初には考えていなかったことを試したくなる。
本稿では、写真を立体へ変換する《Ghost Capture System》(以下、GCS)と、電気機器を作動させて合奏する《Ghost in the house technology》を取り上げる。前者では、写真を通してゴーストを見ようとし、後者では、自分がゴーストとなって世界へ働きかける方法を考える。どちらも、想像を、手を動かして試せるところまで持っていく制作である。
ゴーストは存在してほしい。しかし、何を見たらその存在を認められるのか、何を作れば捉えたと言えるのか、私にはまだわからない。確証のないまま、それでも実行できる部分から作り始めている。
この態度には、私自身の宗教的な経験も関わっている。幼少期から寺社への参拝や奉納、お盆や初詣といった行事に親しんできた。一方で、神仏を虚構のように感じることもある。儀式を重んじることと、その対象を確信することは、私の中で必ずしも一致していない。
制作についての対話で、墓石に手を合わせたとき、そこに誰かがいると感じなかったかと尋ねられたことがある。私は、墓石よりも携帯電話の中の写真の方が、その人を鮮明に写していると答えた。表情や服装、背景を見返すことで、その人と過ごした時間を思い出す。私にとっては、そちらの方が、思いを馳せることに具体的な実感がある。
しかし、それなら墓や儀式はなくてもよいのかというと、そうは思わない。写真があれば十分だと割り切れず、物に手を合わせる行為や、そこに伴う霊性を重んじてしまう。写真を見ることと、墓へ向かうことは、同じ対象へ近づこうとしているようでいて、置き換えることができない。
この会話をしたとき、GCSの制作はすでに始まっていた。墓石と写真をめぐる感覚は、作品の発想に先立つ説明ではなく、作っている自分を振り返る中で見つかったものだった。制作を言葉にしようとして、ようやく気づく動機もある。
本稿では、この個人的な感覚を出発点に、写真史と心霊実験史をたどり、現在の制作へ戻ってくる。像を残すこと、物に形を与えること、電気を動かすこと。見えない存在への期待が、こうした手順に結びつくとき、何が作られ、何がなお確かめられずに残るのかを考えたい。
1839年1月、ダゲールによる写真の成果がフランス科学アカデミーで紹介され、同年8月にはその方法が公開された。銀めっきされた銅板に像を定着させるダゲレオタイプは、精細な画像を機械的・化学的な操作によって得る技術だった。マルコム・ダニエルは、写真が初期から芸術表現と科学的な道具という二つの性格を持っていたことを指摘している。[1]Daniel, 2004
今日、写真を撮るたびに、像が生じる仕組みを意識することは少ない。それでも、目の前の光景が光の作用によって物質の上に残るという出来事を、いったん立ち止まって考えてみたい。私が写真を扱うのも、その見慣れた働きを、別の操作によって経験し直すためである。
写真に記録されるものは、必ずしも撮影時に肉眼で見えた姿と一致しない。露光の時間、レンズ、感光材料、現像やプリントといった条件が、像の現れ方に関与する。写真は対象について何かを示すと同時に、それを成立させた装置や操作の性質も帯びている。
1860年代初頭に心霊写真を制作・販売したウィリアム・マムラーの写真では、人物の傍らに、死者の霊とされる像が現れた。こうした写真はスピリチュアリズムと結びつき、支持と疑いの両方を集めた。メトロポリタン美術館の展覧会「The Perfect Medium: Photography and the Occult」は、主に1860年代から第二次世界大戦までを対象に、心霊現象の支持者も懐疑者も写真を証拠として用いた歴史を扱っている。[2]The Metropolitan Museum of Art, 2005
ここでは、写真を見る行為が、画像の外にある存在を判断する行為へつながる。画面に何かが見えること自体は否定しにくい。しかし、それが誰であり、何によって現れたのかは、画像があるだけでは確定しない。写真の具体性が、かえって解釈を要求するのである。
心霊写真に現れる霊らしい像には、技術的に制作できるものがある。エミリア・ミケヴィシウスは、複数のネガを重ねるプリントや多重露光などの方法を紹介するとともに、写真への信頼と、離れた相手と接触したいという期待が心霊写真の受容に関わっていたことを論じている。[3]Mickevicius, 2021
像を作る方法がわかっても、なぜその像が求められたのかという問いは残る。心霊写真には、技術によって像を得ることと、誰かにもう一度会いたいという願いが重なっている。私が惹かれるのは、その願いが、写真という具体的な物に託されることである。
その期待は、写真を見る者だけでなく、作る者にも向けて考えられる。見えない存在を捉えようとして、カメラや感光材料を扱い、像を得る条件を整える。対象を確かめられないままでも、そのための準備や操作には手をつけられる。ゴーストへ向かう想像が、技術を扱う行為に入り込む。
GCSで用いる「写ってしまった何か」という言葉には、目の前の像から、その成立の説明だけでは尽くせない存在を感じる経験を込めている。心霊写真には意図的に制作されたものもあり、この言葉は歴史上の写真が偶然に生じたことを意味しない。私が立体造形へ引き継ごうとしているのは、像があることで、そこに何かがいるかもしれないと感じる経験である。
写真の表面に像を残すことと並んで、霊的な存在を、触れられる形として残そうとした実験がある。
1920年11月から12月にかけて、パリのInstitut Métapsychique International(以下、IMI)では、霊媒フラネク・クルスキを対象とした実験が行われた。IMIが公開する回顧的な論考によれば、物質化したとされる手を液状のパラフィンに浸し、薄い蝋の型を残す方法が用いられた。型には石膏が流し込まれ、蝋を取り除くことで手などの形が保存された。[4]IMI, “The Kluski Hands Moulds”
この論考は現象の真正性を支持する立場にある。本稿では、その結論を確立した事実として扱わない。参照するのは、霊との接触を物体として残そうとした手続きである。
この手続きでは、身体が現れ、物質へ触れ、その身体がなくなった後にも形が残ることが想定されている。パラフィンは、消える身体を受け止めるために置かれる。さらに、その薄い型を石膏へ移すことで、一時的な現象を、後から観察できるものへ変えようとしている。
見えない存在を確かめたいという期待が、蝋を溶かし、型を取り、石膏を流す作業にまで及んでいる。私はそこに惹かれる。霊についての問いが、材料をどう用意し、得られた形をどう残すかという、手元の仕事になっている。
写真では光によって像が成立し、霊型では身体の接触が主張される。この二つを、不可視の存在を捉える技術が進歩した一つの歴史として並べることはできない。
それでも、現在の制作から振り返ると、両者には、見えない存在を像や形として持ち帰りたいという期待が見える。写真や型を得ることによって、その期待に、手元に置いて見返せる形が与えられる。
パラフィンをGCSの最終素材に選んだ中心的な理由は、この歴史にある。かつて霊の身体を受け止めようとした素材に、今度は写真から取り出した形を与えてみたい。蝋の透け方や繊細さへの関心は、この試みとともにある。
GCSでは、写真の情報を変換し、原型を作り、型を取って鋳造する。霊の身体との直接の接触を主張した実験とは、形に至る道筋が異なる。また、歴史上の実験で石膏像を得るために用いられたパラフィンが、本作では像そのものの材料になる。
私が進めてきた写真の立体化は、初めからパラフィンのために考案されたものではない。
2024年には、写真を変換したデジタル画像と、ABSやUVレジンによる立体出力を制作した。2025年にはPLAによる作品を展示している。現在構想するパラフィン版は、この実践を、心霊実験の歴史を持つ素材へ展開するものである。
GCSでは、写真のRGB情報を、局所的なXYZ座標へ対応させる。色の違いを位置の違いとして扱い、平面の画像から立体構造を生成する。人物の身体を三次元スキャンするように復元するのではなく、その人物を写した写真に対して、異なる読み方を与える操作である。
ポートレートを見るとき、私は色の差を、肌の陰影や顔の輪郭、髪や衣服の細部として受け取っている。GCSでは、その色の差が空間的な起伏や密度として現れる。元の写真で見えていたものが、そのまま厚みを持つわけではない。同じ写真に由来しながら、別の像が成立する。
この変換方法を選んだのは、まず、そこに生まれる形が視覚的に面白かったからである。出力を見ながら構図を調整し、つまらないものは採用しない。規則に従って処理を進めることと、その結果を見て選び直すことの両方が、像を作っている。
色を座標へ対応させる規則は、私が選んだものである。処理を正確に実行できても、そこに現れる形がゴーストへ通じるという保証はない。造形としての手応えと、何かを捉えたという確証は、まだ重ならない。
GCSは、写真を一般的ではない方法でプリントすることとも言える。通常のプリントが、写真の色を色として再現するのに対し、本作では色を位置へ読み替える。「別の仕方で焼き付ける」とは、この対応関係を変えることである。誤作動させるのではなく、正確に作動する別の規則を用意する。
2025年のPLA版の展示では、鑑賞者が光を操作し、立体に生じる陰影の変化を見る構成を採用した。物体の形は固定されていても、照らし方によって見える像は変わる。変換によってできた形を、さらに光によって探る行為を、鑑賞の中に組み込んだ。
ここで私が用いる「ゴースト」という語には、視覚メディアに現れる虚像と、見えない存在への期待が重なっている。死者の姿だけを指す語には限定していない。また、出力された物体の一部分を指して、そこがゴーストであると定めてもいない。写真、変換された立体、それを見る行為の間に生まれるものとして考えている。
ポートレートの選定には、私が美しいと感じることが関わっている。例えば、一人のモデルを撮り続けるなら、その人と過ごす時間や、近づきたいという気持ちも、写真を選ぶ理由になるだろう。そこには、変換の規則だけでは説明できない私的な関心がある。
そうした関心から作られた像に、相手の何が残るのか。人物を写した写真に由来することは確かでも、その人の内面を捉えたかどうかはわからない。誰かへ近づこうとする気持ちを持ちながら、得られた形を見ている。
元写真の併置にも慎重である。写真と立体を並べると、「この写真がこう変換された」という対応の確認が、鑑賞の中心になるように感じるからである。原像とのつながりは制作にとって重要だが、そのつながりをすぐに解読できることが、作品にとって常によいとは限らない。私は、出力された像を見る経験を、変換前後の比較だけで終わらせたくない。
パラフィン版では、生成した立体を3Dプリントし、原型から型を取って、蝋へ移すことを構想している。最終的に提示する作品はパラフィン像であり、樹脂原型は制作のために用いる。
原型に生じる同心円状の出力痕は、消さずに転写する。スライサーの設定から自動生成される経路が、等高線のような表面を作る。この、機械を通って形になったことがわかる見え方を、私は重視している。
かつて心霊実験に用いられた蝋の表面に、現在の機械の痕跡が残る。パラフィンへの置き換えによって出力の来歴を消すのではなく、その痕跡を含めて像を鋳造する。古い実験への関心と、技術によって形を得る現在の制作が、一つの物体の表面で重なる。
パラフィンは、ある程度光を通す。不透明な原型を蝋へ移すと、表面の陰影に加え、厚みや光の透け方が像に関わるはずである。どのような見え方を得られるかは、試作と照明の検討を通して確かめていく。PLA版で行った光の操作を引き継ぐかも、その結果から判断したい。
素材のデリケートさにも惹かれている。慎重に扱わなければ形を保てないことは、ゴーストを捉えようとする物体にふさわしい感触を持つ。ただ、壊れやすさに惹かれることと、実際に壊したいことは違う。私は、得られた像の形を保ちたい。溶解や変形を、霊の消失として演出することは考えていない。
保護や再鋳造は、その形を保つための制作・展示の条件になる。同じ型から作る複数の像はエディションとして扱う。原型やデータが残っていても、展示する作品は、一つひとつのパラフィン像である。
どこまで輪郭を残し、表面をどう転写し、どの光の下に置くか。像の現れ方は、こうした判断に左右される。ゴーストを捉えたかどうかがわからないことは、目の前の造形について判断する手を止める理由にはならない。
《Ghost in the house technology》(2025年)は、「もし死後、幽霊となって世界へ干渉するならば、家の配線や電気の仕組みを理解しなければならないはずだ」という想像から始まった。ここで想像しているのは、私のゴーストである。
幽霊になったからといって、突然何でもできるようになるのだろうか。身体を離れた自分を想像するときにも、私は、自分が知っていることや、行えることを手掛かりにしている。回路を組み、電気の流れを切り替え、機器を作動させる。私のゴーストが世界へ触れる方法にも、いまの私が身につけている能力が関わっている。
本作では、Arduinoとリレー制御を用いた物理的なステップシーケンサーによって、家電やバイク、照明を順次作動させる。機器の駆動音や光の明滅を組み合わせ、生活の中にある電気機器を合奏させる。想像の中では見えない存在による干渉であるものを、実際の制作では、配線と制御によって実行する。
何を動かすかにも、私の生活が関わる。バイクを走らせること、ハウスやテクノを聴き、そのビートに身を投じること、機器を触り、回路を組むこと。そうした経験が、動かしてみたいものや、鳴らしてみたい音を具体的にする。
バイクや家電は、私のゴーストが働きかける対象として、自分が関わってきた世界から選ばれている。どの機器を動かし、どの順序で鳴らし、どのような間隔で光らせるか。選択と操作を重ねるうちに、その動作は、私の好むものになっていく。
能力は、想像を実現するための手段であると同時に、想像の形を決める条件でもある。私は電気機器を制御する方法を知っているからこそ、ゴーストによる干渉を、電気の流れに触れることとして考える。身体を離れた後の働きかけ方を想像しても、そこには、生きている私にできることがついてくる。
一つの機器から生じる動作や音は、一定の順序で繰り返され、ほかの機器と重なることでリズムになる。配線された機器が合奏を始めると、世界に干渉するという想像は、自分の生活にあるものを使って世界を演奏する行為になる。
ここでは、私の身体に代わって、選ばれた機器と、それらを動かすリズムがある。もし姿が見えなくなっても、何に触れ、何を鳴らし、どのように振る舞うかには、私らしさが残るのではないか。バイクが鳴り、家電が動き、照明が明滅する。その振る舞いとして、私のゴーストを考えている。
私は、自分が作ったものを見る者でもある。GCSの変換規則を知りながら、出力された形を見て、採用するか、もう一度作り直すかを決める。電気機器を動かす順序を組みながら、実際に鳴る音や明滅する光に聞き入り、見入る。手順を決めるときにはわからなかった手応えが、作ったものを前にして生じる。
「写ってしまった何か」を出現させようとすることには、奇妙なねじれがある。私は、像が生まれるように意図して操作している。それでも、現れた形を前にすると、そこに何が見えるかを探っている。どのように作ったかを知ることと、できたものを見尽くすことは、同じではない。
構図や素材の状態については、具体的に判断できる。作品として完成したと判断することもできる。しかし、それがゴーストを捕まえたことになるのか、確かめる尺度は持っていない。造形を改善しても、その分だけ捕獲に近づいたとは言えない。成功したとも失敗したとも決められないまま、物体は目の前にある。
制作について話した際、私は、視覚的に面白いものはできつつあるが、幽霊を捕まえたかといえば、あまりうまくいっていないと答えたことがある。すると、作品を作ってしまうこと自体が、私が幽霊に取り憑かれているようだという言葉が返ってきた。
この言葉を聞いて、捉えようとしていた対象から、作っている自分へ視線が戻った。私は装置を動かしているが、その装置を作り続ける理由には、まだ見たことのないものへの期待がある。確証を得たから制作しているのではなく、得られないまま、気になって手を動かしている。
鑑賞者が作品を通して「なぜ信じるのか」と考えることはあるだろう。ただ、私もその問いの中にいる。誰かが何かを見いだす様子を外から観察するだけでは済まない。自分も、見たいと思って作っているからである。
また、パラフィン像を美しいと感じることや、電気機器の合奏をリズムとして楽しむことは、それ自体で作品との関わりになる。私がゴーストを見ようとしているからといって、鑑賞者も同じものを求める必要はない。形を眺めることや音に身体を動かすことの面白さは、私自身にとっても、制作を続ける理由である。
写真に霊の姿を見ようとすること、蝋に身体の形を残そうとすること。その歴史に私が見いだしたのは、見えない存在への期待が、像や物質を扱う手順になっていく過程だった。GCSも、その期待を抱えながら、写真を変換し、形を出力し、蝋へ移すところまで進めようとしている。
携帯電話の写真を見れば、その人の姿を鮮明に思い出せる。それでも物に手を合わせることを手放せない、という感覚は、いまも残っている。GCSで、すでに見える写真をあらためて物体にしようとすることも、その感覚と無関係ではないだろう。写真にある情報を増やすのではなく、それに触れる方法を変えてみたいのである。
《Ghost in the house technology》では、反対に、自分の姿が見えなくなった後の、世界への触れ方を考えた。そこでも、身につけた技術や、好きな音、関わってきた物から離れることはできなかった。ゴーストを想像していたはずが、その振る舞いを具体的にするほど、現在の自分の生活が現れてきた。
その経験からGCSへ戻ると、写真の選び方にも、変換の規則にも、出力を眺めて作り直す判断にも、私自身が関わっていることがあらためて見えてくる。そこに現れるものは、写真に写る相手だけによるものでも、装置だけによるものでもない。その間で何が形になるのかを、次はパラフィンで確かめたい。
《Ghost Capture System》は、ポートレートを別の仕方で焼き付ける。
写真の色を空間の位置へ読み替え、立体として出力し、パラフィンへ移す。かつて霊の手を型取るために使われた蝋に、今度は写真から取り出した形を与える。表面には、機械が刻んだ同心円状の痕跡が残る。
心霊写真のように「写ってしまった何か」を、今度は写真の外へ、物体として出現させようとする。
[1]Daniel, Malcolm(2004)“Daguerre (1787–1851) and the Invention of Photography.” Heilbrunn Timeline of Art History. The Metropolitan Museum of Art, October 1, 2004. 本文
[2]The Metropolitan Museum of Art(2005)“The Perfect Medium: Photography and the Occult.” 展覧会広報資料。会期:2005年9月27日〜12月31日。 本文
[3]Mickevicius, Emilia(2021)“Seeing Ghosts: A Brief Look at the Curious Business of Spirit Photography.” San Francisco Museum of Modern Art, October 2021. 本文
[4]Institut Métapsychique International(公開年未確認)“The Kluski Hands Moulds.” ウェブ掲載論考。 本文
ウェブ資料の最終参照日:2026年10月7日。
執筆上の注記
本稿は制作研究の仮稿である。歴史記述は美術館の解説資料およびIMIの回顧的な論考を中心とし、当時の実験報告を直接精読したものではない。IMIの論考は現象の真正性を支持する立場にあり、本稿では、その立場と実験方法の記述を区別して参照した。今後は当時の実験報告と、後年の肯定的・批判的な研究を比較し、記録された出来事と解釈をさらに検討する。
第三者との対話は筆者の回想に基づくものであり、録音からの逐語引用ではない。パラフィン版については、鋳造の結果、表面の転写、透過光、展示条件による像の違いを記録し、制作・展示結果を追記する。
PROFILE / CV